梅の木

庭に小さい梅の木がある。
1年程前に植えたのだが、場所が悪かった。
悪かった、というのは人間にとって都合が悪いと言う意味だ。
家庭菜園を作るために邪魔だったし、洗濯物にも虫が飛んでくる。
梅の木は小さいなりに根を張り、葉を生い茂らせていた。
春になるとアブラムシがびっしり張り付いて、樹液を吸う。
その大量のアブラムシを、さらに大量のテントウ虫が食い尽くす。
梅の花は咲いたことがない。


この前その梅の木を植え替えた。
思い立ったが吉日、早速周りを掘って、土のついた根ごと移した。
ところが、その日から葉が萎れて行き、ついに枯れてしまった。
住み着いていたテントウ虫も、あるものは死に、あるものは逃げ去ったのだろう。
梅の木自体が完全に死んだかどうかは分からない。


移植の時期も悪かったし、もっと周りの土を多めに移し替えるべきだったようだ。
樹木自体の生命力が弱かったことも考えられる。
花は咲かなかったし、幹も細かった。
また、土壌が合わなかったことも考えられるし、養分も足りなかったのかもしれない。


とはいえ、後味の悪い物だった。
自分が枯らしてしまったわけだ。梅の木からすれば良い迷惑であったろう。
植物にとって環境が変わると言うのは、たかだか1m程度でも大きな変化なのだ。


そうして梅の木が自分の境遇を連想させた(被災者の事を語ろうかと思ったけどやめた)。
人間には自律性があるけれど、環境と無縁ではいられない。
そういう生き物だからである。
私は梅の木のように枯れるまでは行かなかったが、大分弱った。
きっと周りが見えていなかったのだろう。
自分が何にいかされているのか、分からなかったのだろう。
もっと言えば、自分が人間と言う生物である事をよく分かっていなかったのかもしれない。


しかし、慣れる事は出来る。
環境が変わっても、だんだんと適応する。
それが人間の強みでもある。


実家の暮らしも最初はきつかったが、だいぶ慣れた。
今の暮らしは悪くない。身体は健康そのものだ。
家の仕事を手伝うと言っても、自分のペースで出来るからストレスは無い。
勉強はそれ自体面白い。毎日成長している気になれる。


しかし、空を切るような感覚は大きくなる。
「ふさわしくない」と感じているのだろう。
環境の変化は、何も枯死だけをもたらすのではない。
積極的な変化だって起こすのである。
そうして、それは起こった。何も今に始まった事ではないのだが。


1月に内定を辞退して、急かされるまま医学部再受験をするという選択をした。
そうしている間に3.11があった。
地震津波は自分の認識や価値観を揺るがすには十分過ぎた。
そのショックはジワジワと心の中に広がっていて、実家に帰った後芽を出した。
それだけじゃない。
今まで触れていなかった数理系の学問が、自分の認識を変える。
考え方や世界観が影響を受けているのが日ごとにわかる。
感性まで変わってしまう。


振り返ってみて、色んな事がおかしい。
就活も、内定辞退も、その後の選択も...
いやそもそもその前からずっと...
おかしな事の上に成り立っていたとしか思えない。
おかしな事の上に成り立って、その先に見ていたものは、マボロシにしか見えない。
今までの考えは考えと呼べない。今まで見ていたものは現実ではない。
どう考えても、間違ってる。
ありもしなかったものだからだ。
ありもしないものをあるとは言えない。
ただそれだけのことなのだが、それを認めるとすごく楽になった。
自然体で居られる。
変に感傷的になって、自分を偽ることもない。


それにしても私は、ばかなのだろうか。どうしようもない愚者なのだろうか。
なんとか、あるがままのものを見つめて、しっかり生きて行く事はできないものだろうか。
しかし何をどうすれば良いのだろう。
このままでは大事なものも失ってしまいかねない。


受験勉強は続けながら、実家の仕事もしつつ、空いた時間はそういう事を考えている。
どうか考えが実を結びますように。