シモーヌヴェイユとの対話を終えて

何か久しぶりに書いてみます。

<前提>
対話、とはこの場合比喩である。話すと言う事は、厳密に言えば生き物同士のコミュニケーションであるからだ。
生命が何か、という定義が出来ない以上、このような定義は無意味かもしれない。それに、日常の論理からはズレた言葉になる。死者と話す、というのは、どこかオカルトじみている表現だ。

しかし私は、あまりこの表現に違和感を覚えない。なぜなら、死者はそこに現前しているからだ。テクストとして、存在している。テクストは語りかけてくる。
このような体験は、哲学者にはよくあることだ。思想の持つ性質をよく見極めれば、あまりオカルトでもなくなる。ただ、その体験を言葉に表したらその通りになると言うだけに過ぎない。池田晶子も、死んで私は残ると言ったし、アランと言う哲学者もこのような事を言った。死者との対話は、死者と「わたし」を融合させる事にある。

死者を「情報」と置き換えるなら、ずいぶん現代っぽくなる。
information.
語源を調べてみると、色々あって面白い。ギリシア語のエイドス(プラトン)から来たという説や、キリスト教の影響を受けたと言う説もあるし。形を形たらしめているもの、つまり中身(in+form)というのがおおよそのストーリーなようだ。キリスト教だと「神の息吹」とか、スコラ哲学だと「動因(うろおぼえ)」みたいになる。

もう現代では、「生命活動に影響を与える全てのもの」となってくる。しかしこうすると魔術や宗教も馬鹿に出来なくなるのだ。見渡してみれば、人は迷信にとらわれている事がしばしば。それに魔術や妖術の類いから数学や化学は生まれてきたのは常識だし。無論、それらが「同じ」というつもりは無い。区別される。

それらのどれもが人間と自然の関わりの「あいだ」から生まれたものなのだから不思議でもなんでもない。例えば「霊」とか。これは現象を表した比喩です。「霊が実在する」というのは、比喩としてなら理解できる。「霊」とは、見えないけど作用する何かである。そのように我々が認識しているとき、確かにそれは「霊」である。現象としてなら、真実だ。しかしそれが「比喩だ」ということを超えて扱われるとき、間違いが起こる。害となる。それが相応しく捉えられなくなったとき、混乱が起こる。迷信とは、正しく認識出来ていない事が原因になる誤った信念である。

なので、「死者」という事を比喩として使っている私の言葉を、その用法を超えて拡大解釈はしないでいただきたい。

<表す事の難儀>
自分の考えを、形にするのは困難である。しかも相手は神秘主義者だった。「神」「実在」「善」「無」「自己無化」などというキーワードが目白押しである。もうスタートからして無茶な言葉たちだ。「ありもしない」ようなことばかりだからだ。一体皆さん、このような言葉を真剣に考えた事があるだろうか?
所謂「普通の人」はこういうモノを避けて通るのがベターだと反射的に思う。

ところが、哲学の知的良心は微妙なところにある。「ありそうもない」と思っていても「何かあるな」と思う。そういう感性が、自分を動かしてしまう。無駄かもしれないと思っていても、確かめずにはおれない。無駄なら無駄だと証明したい。マスコミが「本当だ」と言っても「嘘かも」と思う。お医者さんが「不治です」と言っても「治るかも」と思う。そんな傾向を持っている。哲学者は、ひねくれ者である。

これは困難な事だ。最初に自分の考えを否定し去ることが要求される。「自分」が邪魔になる。テクストを読む、というのはまず自己否定を行う事である。目の前にある何かを、しっかりと見つめる事から始める。そこにあるものに対し、耳を傾ける事から始める。自分の感触で、手探りで、形を確かめて行く。
この説明を聞いてある人は「それは現象学だ」とか言うかもしれないし、「観照ですね」と言うかもしれない。私はそういうレッテルはどうでも良いと思っている。ただそれを正しく見ようとする姿勢は、レッテルからは生まれない。自分でそうしようとしないと、ダメなのだ。

そうして初めて、言葉が私に語りかけてくる。そこから、「対話」が生まれる。相手の話を聞くには、こちらに受け入れる姿勢が無いといけないらしい。そこまで辿り着くのが大変だった。そのことに確信を持てるまでは時間を要した。それまでに書いたものは、殆ど「雑音(ノイズ)」であり、ガラクタだ。つまり、ゴミだ。無内容と言うよりは、内容が形を持っていない。砂金の埋まった泥のようなものだ。

それはシモーヌヴェイユという人の言葉に影響されたからなのかもしれない。彼女の表現は、極度に研ぎすまされていて、全く無駄がない。だから、私もそういうスタイルになってしまう。彼女の思想を表す時にも、無駄があると反映出来なくなる。必然、私の文章も彼女の影響を受ける。一種の自己矯正だ。最初は苦痛だったが、慣れてくると変化させるのが楽しくなってくる。マゾ、という言葉が読者に浮かぶのを予想する。
私がシンプルな表現をしたいと思っていた事も大きいし、それが一番だとは思う。成長には苦痛を伴うものです。自己否定しないと他人の意見なんて吸収出来ない。それは確かに辛いかもしれない。でも、成長したい=その先に快がある、だから苦痛を受け入れる。決して苦痛が目的なのではない。

<明晰さ>
「わかりそうにないもの」は、その内容を示すだけでも一苦労である。しかし、意外とアッサリ解決してしまうこともある。私は彼女の思想の一面を図式化して見たし、それはごくシンプルなものである。何でこんな単純な事が分からなかったんだろう、という具合だ。そして「もっとこうすれば良いのに」と改定し始める。

ただ、それは終わった後だから言える事だ。プロセスを振り返ってみると、最初は到底不可能に思われたことだった。無論、問題が設定される以上、答えはある。ゴールの設定の仕方が大半を占めている事は確かだ。だから、上手く問題を設定する事が9割と言っても良い。
が、だからといってすぐに答えがほいほい出てくるわけではない。そのプロセスは時間を要する。私がもっと頭の回転の良い人間だったら、すぐに解決も出来るだろう。しかし、私は飛び抜けた天才ではない。どちらかといえば、愚かである。だから愚かだと言う事を忘れないように。何でも分かった気にならないように。分からない事が殆どなんだと言う事を忘れないように。地道に考えて行くと言う、愚直なスタイルを忘れないように。
同時に、決して諦めないように。途中で「この問題設定がおかしい」と気づくまで、思考の歩みを止めないように。
そのようにして行うから、時間がかかる。

<認識の変化>
「自然に」考えると言うのは、実に難しい。自然に、というのは「勝手に」では無いからだ。自然科学、の自然に近い。謬見を排して、考えようとする努力。これは、努力を要する。人間のnature(性質)は、本当のnature(自然)には遠いのである。にもかかわらず、我々は勝手に「自然の一部」だと思っている。
こういう矛盾が至る所にある。
突っ込んで考えると、おかしな事は一杯ある。最初は「もやっ」とするだけだ。つまり直感である。それを辿って行くと、全く違う考えに覆されてしまうことがある。
こういう経験をすると、哲学は止められない。
「ほんとうの」自分は、自分を超えたところにあるのです。
宗教じみていますかね。でも、これは単なる私の主観の記述に過ぎません。

しかしこれも私の考えです。そして私はまた「これ」を確かめようとします。「それは本当かな」と。
このようにして私の考えは続いて行くのでありましたとさ。