書くこと

<書いて評して論ずるということ>
 論文、論評、書評、こういう類いの書く事は、難しい。自分が理解したことを正確に表現しなければならないからだし、何と言っても書かれなければならない。会話のように臨機応変に、状況に応じて適当にやる事は出来ない。始めと終わりを持ったものとして、まとめられたものとして、提出されなければならない。
 だからああでもないこうでもないとシミュレーションしつつ、延々と一人ノリツッコミを続ける。会話はどちらか一方の役で済むが、書く時はそうも行かない。
 とはいえ、まとまらないと言い続けても仕方ない事は分かっているので、期限(deadline)を設ける。他人に読んでもらう事が前提であるから、コメントがもらえるだろうと期待しつつ、提出する。
 このブログを書くのは結構難儀している。はっきり言って、まだ大学のレポートの方が楽だった。割といい加減にやっても許されたから。不特定多数に見られる事も無かったから。もちろん、全てのレポートに手を抜いていた訳ではない。自分が惚れ込んだものに関しては、熱心にやった。
 何かを真剣にやるのだとしたら、真剣にやる為の動機や目的、あるいは誘因(インセンティブ)が必要である。それは外からのもの—周囲の視線だったり、恥という恐怖だったり、また賞賛と言う名誉—かもしれないし、内からのもの—知的鍛錬と言うストイックさであったり、知的好奇心と言う情熱—かもしれない。
 ちなみに僕の目的としては知的鍛錬であり、動機としては知的好奇心半分、またそれだけでは自己満足におちいるから嫌だと言うストイックさが2割、残り3割は恥と罪悪感。(なのでお気軽にコメントください。)だからどうしてもある程度納得のいく形で出さねばならないのである。

<論文>
 最近卒業論文の為に殆ど一日が費やされる。かつてこれほど勉強した事は無い、と言うくらいしているが、努力感はあまり無い。以前のように自分の頭の使い方に難儀するとか、ストレス対策がヘタだとかいうことがないからだ。何より、楽しんで(enjoy)やっていることが大きい。年々、勉強する事が苦ではなくなってきている。
 だからといって楽(easy)かと言えばそんなことはない。大変だ。考えても考えがまとまらない。書いては考え直し、書いては考え直し、ある程度出来たと思ったものを論評してもらうと真っ向から否定され、そしてまたやり直して、の繰り返し。何かを形にすると言うのは果てしないものであるかのよう。
 そんな中で、論文には使えない自分の文章は溜まって行く。本題からそれてしまった材料たち。ある思考をする際に、役には立ったけど、それが出来上がったら不要になってしまったものたち。もしくは、本当は必要なのに、不要だと言うえん罪を被ってしまった犠牲者たち。それを、ここで再利用出来たらなと。意外と、それが本題にもつながってくるかもしれないし。

<なんのため>
 論文にする題材が、どこまで公的か私的かという問題は、僕をとても悩ませている。これ研究対象にして意味あんの?というのが僕を悩ませる疑問である。一応研究と言う名がつく以上、誰かにとって意味のあるモノ、役に立つモノでなければならない気がしてくる。
そんなことを教授に相談すると
「哲学と言うのは基本的に自分の為にするのであって、哲学の為に哲学をするのではないんですよ」
と言われた。君のやっている事は哲学であって、哲学学=哲学研究ではないんですよ、と。あくまで君の興味関心に従ってやるべきだ、と。
 いや、そうなんだけど、折角大学と言う所にいるのだから、ちょっとは研究らしい事もしだいわけだ。
 でも哲学科にとって研究とはそういうものらしい。教授が言うからきっとそうなんだろうと言う事でとりあえず納得してみる。
 確かに、個人の書いた覚え書きのような文章が世界中で、時代を越えて読まれていたりするわけで。社会と言うのは個人の集まりである。個人が無ければ社会は成り立たない。個人のためにならないようなものが、社会の為にはならないだろう。
 真摯に、深く考えれば、ちょっとは価値のあるものが—というか価値なんて気にしたら駄目なんだけど—出来るかもしれない。こうやって何かを形にすると言う作業自体が、自分の鍛錬になって、自分の知的な成長につながるとしたら、それもまた社会にとってはプラスだし...という風に自分を説得してみる。
 とはいえ、共同研究とか、プロジェクトのようなものに憧れがある事は否定出来ない。年を取るにつれ、自分は理系寄りの人間だったのだと気づかされるのだけど、まあ今更。再入学するとしたら建築学か生物学をやりたいかな。でも学問自体から離れたいような気もしていて、だから生まれ変わったら音楽家になりたいとか思ったりもする。
 ちなみに、僕は転生は信じていない。割と仏教的な死生観に近い。
 もうひとつちなみに言っておくと、僕は自分というものが何なのかたまによくわからなくなる。観察してみたら他人の考えばかりのような気がする時があるのだ。頭を空っぽにしている時の方が、よっぽど自分らしいと感じる時がある。これは、書き出すと止まらないので、ここで止める。いずれまた、ということで。
 次回は文献について書きます。