cigar as a

as a の後に、「節目」を入れようとして節目に相応しい英語を探したけど見当たらない。
なので何も入れない事にした。

cohiba mini という最高級のキューバ葉巻...の一番安いやつと、panterというオランダ産のバニラ味の葉巻を吸った。
cohibaは上品なものに良くある、癖の無さが特徴的。
panterはバニラ味が強くて、本当のところはどうなんだろ、と言う感じ。でも国産煙草よりは美味しい。
価格はcohiba \1,450(10本入) panter \400(5本入)。

葉巻は煙草と比べて可燃性が低く、定期的に吸わないと火が消えてしまう。
品質上煙草と比べて持続性が高い。灰が中々落ちず、これがラジエータとして上手い具合に機能している。
油断してずっとくゆらしていたら膝元に灰の固まりが落ちた。
灰はきめ細やかで、さらさらとしていた。これも特徴的なことか。

今日は下北沢の喫茶店で回想にふけって記憶を整理していた。
最近はこの店に毎週のように通っていて、数時間居座っている。
ここに居るだけでくつろげるので、大変助かっている。
休日の夕方、店内が混んでしばらくして、店を追い出されてしまった。
少し悲しかったが、良い機会だと思って界隈の雑貨屋等を見て回った。
下北沢は歩くだけで楽しい。オリジナリティのある小さくて良い店が、街中にぎっしり詰まっている。

ぶらぶらして暗くなってきたので、さて帰ろうと思って駅に向かうが、駅前のタバコ屋にふらっと入る。そこでほぼ衝動買い。

私がケムリを吸うのは、気分転換という名分が存在する時だ。
頭脳を過剰に使う仕事をする時か、人間関係で嫌な思いをしたとき。
今回は後者。
輸入物は前から試してみたいと思っていたこともあり、良い口実だったのかもしれない。
特にくよくよしている事はないどころか、一晩寝たらスッキリしている。
そういうのは瞑想やセルフロゴセラピーで十分解決可能な程に成長したので。

煙とともに、嫌なものを吐き出す。活性化しすぎた細胞の一部を殺す。
そんなイメージと、感覚。
半年に一度くらいしか起きないことなので、たまには良い贅沢かなと思っている。
香りが上品で良い心地。

最も良いのは、いやな事が起きない事だ。そう思いながらも不幸にちょっとだけ礼を言う。
煙草は煙草それ自体で嗜まれることが望ましい。だって嗜好品だし。

シモーヌヴェイユとの対話を終えて

何か久しぶりに書いてみます。

<前提>
対話、とはこの場合比喩である。話すと言う事は、厳密に言えば生き物同士のコミュニケーションであるからだ。
生命が何か、という定義が出来ない以上、このような定義は無意味かもしれない。それに、日常の論理からはズレた言葉になる。死者と話す、というのは、どこかオカルトじみている表現だ。

しかし私は、あまりこの表現に違和感を覚えない。なぜなら、死者はそこに現前しているからだ。テクストとして、存在している。テクストは語りかけてくる。
このような体験は、哲学者にはよくあることだ。思想の持つ性質をよく見極めれば、あまりオカルトでもなくなる。ただ、その体験を言葉に表したらその通りになると言うだけに過ぎない。池田晶子も、死んで私は残ると言ったし、アランと言う哲学者もこのような事を言った。死者との対話は、死者と「わたし」を融合させる事にある。

死者を「情報」と置き換えるなら、ずいぶん現代っぽくなる。
information.
語源を調べてみると、色々あって面白い。ギリシア語のエイドス(プラトン)から来たという説や、キリスト教の影響を受けたと言う説もあるし。形を形たらしめているもの、つまり中身(in+form)というのがおおよそのストーリーなようだ。キリスト教だと「神の息吹」とか、スコラ哲学だと「動因(うろおぼえ)」みたいになる。

もう現代では、「生命活動に影響を与える全てのもの」となってくる。しかしこうすると魔術や宗教も馬鹿に出来なくなるのだ。見渡してみれば、人は迷信にとらわれている事がしばしば。それに魔術や妖術の類いから数学や化学は生まれてきたのは常識だし。無論、それらが「同じ」というつもりは無い。区別される。

それらのどれもが人間と自然の関わりの「あいだ」から生まれたものなのだから不思議でもなんでもない。例えば「霊」とか。これは現象を表した比喩です。「霊が実在する」というのは、比喩としてなら理解できる。「霊」とは、見えないけど作用する何かである。そのように我々が認識しているとき、確かにそれは「霊」である。現象としてなら、真実だ。しかしそれが「比喩だ」ということを超えて扱われるとき、間違いが起こる。害となる。それが相応しく捉えられなくなったとき、混乱が起こる。迷信とは、正しく認識出来ていない事が原因になる誤った信念である。

なので、「死者」という事を比喩として使っている私の言葉を、その用法を超えて拡大解釈はしないでいただきたい。

<表す事の難儀>
自分の考えを、形にするのは困難である。しかも相手は神秘主義者だった。「神」「実在」「善」「無」「自己無化」などというキーワードが目白押しである。もうスタートからして無茶な言葉たちだ。「ありもしない」ようなことばかりだからだ。一体皆さん、このような言葉を真剣に考えた事があるだろうか?
所謂「普通の人」はこういうモノを避けて通るのがベターだと反射的に思う。

ところが、哲学の知的良心は微妙なところにある。「ありそうもない」と思っていても「何かあるな」と思う。そういう感性が、自分を動かしてしまう。無駄かもしれないと思っていても、確かめずにはおれない。無駄なら無駄だと証明したい。マスコミが「本当だ」と言っても「嘘かも」と思う。お医者さんが「不治です」と言っても「治るかも」と思う。そんな傾向を持っている。哲学者は、ひねくれ者である。

これは困難な事だ。最初に自分の考えを否定し去ることが要求される。「自分」が邪魔になる。テクストを読む、というのはまず自己否定を行う事である。目の前にある何かを、しっかりと見つめる事から始める。そこにあるものに対し、耳を傾ける事から始める。自分の感触で、手探りで、形を確かめて行く。
この説明を聞いてある人は「それは現象学だ」とか言うかもしれないし、「観照ですね」と言うかもしれない。私はそういうレッテルはどうでも良いと思っている。ただそれを正しく見ようとする姿勢は、レッテルからは生まれない。自分でそうしようとしないと、ダメなのだ。

そうして初めて、言葉が私に語りかけてくる。そこから、「対話」が生まれる。相手の話を聞くには、こちらに受け入れる姿勢が無いといけないらしい。そこまで辿り着くのが大変だった。そのことに確信を持てるまでは時間を要した。それまでに書いたものは、殆ど「雑音(ノイズ)」であり、ガラクタだ。つまり、ゴミだ。無内容と言うよりは、内容が形を持っていない。砂金の埋まった泥のようなものだ。

それはシモーヌヴェイユという人の言葉に影響されたからなのかもしれない。彼女の表現は、極度に研ぎすまされていて、全く無駄がない。だから、私もそういうスタイルになってしまう。彼女の思想を表す時にも、無駄があると反映出来なくなる。必然、私の文章も彼女の影響を受ける。一種の自己矯正だ。最初は苦痛だったが、慣れてくると変化させるのが楽しくなってくる。マゾ、という言葉が読者に浮かぶのを予想する。
私がシンプルな表現をしたいと思っていた事も大きいし、それが一番だとは思う。成長には苦痛を伴うものです。自己否定しないと他人の意見なんて吸収出来ない。それは確かに辛いかもしれない。でも、成長したい=その先に快がある、だから苦痛を受け入れる。決して苦痛が目的なのではない。

<明晰さ>
「わかりそうにないもの」は、その内容を示すだけでも一苦労である。しかし、意外とアッサリ解決してしまうこともある。私は彼女の思想の一面を図式化して見たし、それはごくシンプルなものである。何でこんな単純な事が分からなかったんだろう、という具合だ。そして「もっとこうすれば良いのに」と改定し始める。

ただ、それは終わった後だから言える事だ。プロセスを振り返ってみると、最初は到底不可能に思われたことだった。無論、問題が設定される以上、答えはある。ゴールの設定の仕方が大半を占めている事は確かだ。だから、上手く問題を設定する事が9割と言っても良い。
が、だからといってすぐに答えがほいほい出てくるわけではない。そのプロセスは時間を要する。私がもっと頭の回転の良い人間だったら、すぐに解決も出来るだろう。しかし、私は飛び抜けた天才ではない。どちらかといえば、愚かである。だから愚かだと言う事を忘れないように。何でも分かった気にならないように。分からない事が殆どなんだと言う事を忘れないように。地道に考えて行くと言う、愚直なスタイルを忘れないように。
同時に、決して諦めないように。途中で「この問題設定がおかしい」と気づくまで、思考の歩みを止めないように。
そのようにして行うから、時間がかかる。

<認識の変化>
「自然に」考えると言うのは、実に難しい。自然に、というのは「勝手に」では無いからだ。自然科学、の自然に近い。謬見を排して、考えようとする努力。これは、努力を要する。人間のnature(性質)は、本当のnature(自然)には遠いのである。にもかかわらず、我々は勝手に「自然の一部」だと思っている。
こういう矛盾が至る所にある。
突っ込んで考えると、おかしな事は一杯ある。最初は「もやっ」とするだけだ。つまり直感である。それを辿って行くと、全く違う考えに覆されてしまうことがある。
こういう経験をすると、哲学は止められない。
「ほんとうの」自分は、自分を超えたところにあるのです。
宗教じみていますかね。でも、これは単なる私の主観の記述に過ぎません。

しかしこれも私の考えです。そして私はまた「これ」を確かめようとします。「それは本当かな」と。
このようにして私の考えは続いて行くのでありましたとさ。

simone weilおぼえがき1


 インテリって凄いんだなあ、とつくづく思う。自分のやってる勉強って、一体なんなのだろうと途方に暮れたくなる。そこは凡人である事を素直に認め、天才ってスゲー、と感嘆するだけにしておいた方が良いのだろう。劣等感を感じるには遠すぎる。
 9歳で数学の難問を解き、12歳でギリシアサンスクリット語を独習。将来ノーベル賞を受賞する20世紀3本の指に入る数学者アンドレ・ヴェイユ。その妹は、10代前半で古代ギリシア語と複数の外国語を駆使し、古代エジプト語やバビロニアのくさび文字を「可笑しいほど簡単な言語です」とか、そんな風に言える人だった。後に左翼の闘士として鳴らすことになる彼女は、10歳の時既に労働者のデモに加わっていた。(ちなみに彼女は組織と言うものに対して生涯一貫して懐疑的、批判的であった。それが政治であろうと、宗教であろうと、一定の距離を置いていた。)


兄と妹の会話には文学作品や哲学書へのそれとない言及がちりばめられていたので、人を排除するつもりはなくても、二人の会話は二人以外には殆ど理解出来なかった。

どんな事が繰り広げられていたのだろう。


たとえば、シモーヌラシーヌの『フェードル』からのイッポリットの嘆きを引用すると、それは、自分はラテン語の作文が終わったので、兄の微分計算が済んだら一緒にアイスキュロスを読もうと言う意味なのだが、一体誰にそんなことがわかるだろうか。


 わかるわけない。

 幼い頃に、自分たちにしか分からない隠語や暗号を使って楽しむのはよくあることだ。この兄妹にとってはこれがそれ。そしてテレビやゲームについて話をするがごとく、高度に知的な会話を日常的に行う。 
 いつものごとくバスの座席で知的な会話を楽しんでいると、前に座っていたおばさんが「誰が学者のモノマネを仕込んだんだ!」と不快感をあらわにし、下車したというエピソードがある。確かに、かわいらしい子供像とはかけ離れている。無理も無いと言えばそうか。生意気な子供は好きではないが、ここまでぶっ飛んでいるなら是非見てみたい。

 言うまでもないかもしれないが、ヴェイユは当時アンリ4世校で哲学教授をしていたアランの弟子でる。ヴェイユの思想は相当にアランの影響を受けている。互いに尊敬し合っていた師弟だったが、当初はそのアランをして「火星人」と言わしめた程の変わり者だった(もちろん、彼女を知るにつれ、次第に火星人ではなくなっていくのだが)。

 この人の思索は複雑多岐かつ関心が広範囲な領域に渡っているため、その研究は困難を極める。体系的な思想を残した理論屋ではない。生前は論文をこそ発表したものの、纏まった本は出していない。殆どは死後彼女の手記を編集して出されたものである。全集は邦訳でも存在する。
 

 そんな事情もあるけれど、その思想自体もかなりユニーク。決して丸い思想ではなく、一種の刺々しさを持つ。あるところはものすごく鋭利であり、ハッとさせられたり、あるところは理解不能だったり、とても奇異な感じを受けたりする。異端と言えば、異端かもしれない。正統が何なのか良く分からない僕が言っていいか分からないけど。
 関心の領域も広い上に、テクストによって全然カラーが異なったりする。後述する「重力と恩寵」のような神秘思想(?)に触れた後、鋭いマルクス主義批判、スターリニズム批判で知られる「自由社会と抑圧」、ハンナアレントが絶賛した「労働と人生についての省察(原題は労働者の条件)」などと読み比べると、違いに驚かされる。

 また、彼女は行動した人だった。活動家だった。彼女の行動は、彼女の意志のあらわれであるが、その意志と行動は殆ど不可分と言っていい程である。だから、彼女の書いたものだけではなく、彼女が何をしたかも見なくてはならない。また、その行動を知る事で、彼女のテクストがよりいっそうリアリティを持って語りかけてくる。彼女のテクストが持つ迫真性は、他ならぬ彼女の触れたリアリティに基づいている。

<重量と恩寵>
ヴェイユを有名にしたのはこの本である。
私が最初に読んだのもこの本だった。


 私も昔工場で働いた事がある。そこでの体験はあまり良いものではなかった。
 そのとき工場労働をしていた哲学者の存在をどこかで知っていた私は、たまたま書店に置いてあった彼女の訳書を買って読んだ。詩的で神秘的な文体。とても優しく高潔であった。汚れた魂があったとすれば、それは一瞬清められた。そのような感覚を味わった。

 それから5年経つ。5年経てば、また異なった印象を受ける。
 
 自分の心境の変化によるところが大きい。割と不満の無い生活を送っている。以前は中2病的な悩みに煩わされる事が多かった。
 そして休学や就活を伴って、哲学から、人文学から離れていた。1年程離れ居てると、何か不健全なものに思われてくるのだ。実務に追われていると、尚更そう。こんなことが何になる、という風に考えるようになる。「自己無化」の思想などは、常識的とは思えないし、狂的、病的と感じられた。
 
 もう一つは、テクストから拒まれていると感じた事。私たちは書物を読む。私たちが書物に向かうと言う点で、能動的(active)である。また、言葉を受け入れる。と言う事は、受動的(passive)である。思想を読むとは、交わること(communication)である。死者はテクストの中に生きている(もちろんこれは比喩)。
 これは不思議だ。死後もなお、その徹底した意志で貫かれた思想によって、私はなんだか道徳的に非難されているかのような気分になってしまうのだ。
 彼女のバイオグラフィを追うとより一層そんな感覚に陥る。自分の今の生活が、欺瞞に満ちていて、虐げられた弱者の上に成り立っているような気がしてくる。学問に対する態度だとか、人生に対する態度だとか、諸々の曖昧なことに対して、刺すような眼で見られるような。妥協する、と言う事を許してくれない。
 
 生前の彼女は妥協しない人だった。労働運動に女性の身で参加していたり、教師になって(向こうの「教師」って日本とはレベルが違います)給料のほとんどを寄付に回していたり、弱者への思いから床で寝たり暖房付けなかったり、ハンストと言っていいくらい全然食事しなかったり、内戦が起きたらすわ一大事と前線に参加したり...枚挙にいとまが無い。変人だけれど、聖人のような生活と高潔で一貫した意志は、人を引きつける魅力があったという。
 そんな真面目で一途な彼女、若い頃はかなり悪戯好きのやんちゃっ子だったり。本当、興味の尽きない人。
 もっと書きたいけど、また今度ということで。
 最後に彼女の一言を添えて今回は終わりに致します。
 

現代文明の総決算をする、またはその批判をすると言うことは、いったい何をすることを意味するのか。人間を自分の手で作り出したものの奴隷とするに至った罠を、確実な仕方で明るみに引き出そうと努力する事。方法的な思考や行動の中に、いったいどこから無自覚的なものが忍び込んできたのだろうか。原始生活への逃避は、怠惰な解決法である。わたしたちが現に生きているこの文明のただ中で、精神と世界との原初的なつながりを再び発見しなければならない。
しかしながら、人生は短く、人々の協力を得る事も、継承者を見つける事も難しく、これは実現不可能な仕事である。といって、この仕事に手を付けないでよい理由にはならない。私たちは皆、獄中で殺されるのを待ちながら、竪琴を弾く練習をしていたソクラテスとよく似た境遇に置かれている。ともかくも、よく生きたと言えるように...

書くこと

<書いて評して論ずるということ>
 論文、論評、書評、こういう類いの書く事は、難しい。自分が理解したことを正確に表現しなければならないからだし、何と言っても書かれなければならない。会話のように臨機応変に、状況に応じて適当にやる事は出来ない。始めと終わりを持ったものとして、まとめられたものとして、提出されなければならない。
 だからああでもないこうでもないとシミュレーションしつつ、延々と一人ノリツッコミを続ける。会話はどちらか一方の役で済むが、書く時はそうも行かない。
 とはいえ、まとまらないと言い続けても仕方ない事は分かっているので、期限(deadline)を設ける。他人に読んでもらう事が前提であるから、コメントがもらえるだろうと期待しつつ、提出する。
 このブログを書くのは結構難儀している。はっきり言って、まだ大学のレポートの方が楽だった。割といい加減にやっても許されたから。不特定多数に見られる事も無かったから。もちろん、全てのレポートに手を抜いていた訳ではない。自分が惚れ込んだものに関しては、熱心にやった。
 何かを真剣にやるのだとしたら、真剣にやる為の動機や目的、あるいは誘因(インセンティブ)が必要である。それは外からのもの—周囲の視線だったり、恥という恐怖だったり、また賞賛と言う名誉—かもしれないし、内からのもの—知的鍛錬と言うストイックさであったり、知的好奇心と言う情熱—かもしれない。
 ちなみに僕の目的としては知的鍛錬であり、動機としては知的好奇心半分、またそれだけでは自己満足におちいるから嫌だと言うストイックさが2割、残り3割は恥と罪悪感。(なのでお気軽にコメントください。)だからどうしてもある程度納得のいく形で出さねばならないのである。

<論文>
 最近卒業論文の為に殆ど一日が費やされる。かつてこれほど勉強した事は無い、と言うくらいしているが、努力感はあまり無い。以前のように自分の頭の使い方に難儀するとか、ストレス対策がヘタだとかいうことがないからだ。何より、楽しんで(enjoy)やっていることが大きい。年々、勉強する事が苦ではなくなってきている。
 だからといって楽(easy)かと言えばそんなことはない。大変だ。考えても考えがまとまらない。書いては考え直し、書いては考え直し、ある程度出来たと思ったものを論評してもらうと真っ向から否定され、そしてまたやり直して、の繰り返し。何かを形にすると言うのは果てしないものであるかのよう。
 そんな中で、論文には使えない自分の文章は溜まって行く。本題からそれてしまった材料たち。ある思考をする際に、役には立ったけど、それが出来上がったら不要になってしまったものたち。もしくは、本当は必要なのに、不要だと言うえん罪を被ってしまった犠牲者たち。それを、ここで再利用出来たらなと。意外と、それが本題にもつながってくるかもしれないし。

<なんのため>
 論文にする題材が、どこまで公的か私的かという問題は、僕をとても悩ませている。これ研究対象にして意味あんの?というのが僕を悩ませる疑問である。一応研究と言う名がつく以上、誰かにとって意味のあるモノ、役に立つモノでなければならない気がしてくる。
そんなことを教授に相談すると
「哲学と言うのは基本的に自分の為にするのであって、哲学の為に哲学をするのではないんですよ」
と言われた。君のやっている事は哲学であって、哲学学=哲学研究ではないんですよ、と。あくまで君の興味関心に従ってやるべきだ、と。
 いや、そうなんだけど、折角大学と言う所にいるのだから、ちょっとは研究らしい事もしだいわけだ。
 でも哲学科にとって研究とはそういうものらしい。教授が言うからきっとそうなんだろうと言う事でとりあえず納得してみる。
 確かに、個人の書いた覚え書きのような文章が世界中で、時代を越えて読まれていたりするわけで。社会と言うのは個人の集まりである。個人が無ければ社会は成り立たない。個人のためにならないようなものが、社会の為にはならないだろう。
 真摯に、深く考えれば、ちょっとは価値のあるものが—というか価値なんて気にしたら駄目なんだけど—出来るかもしれない。こうやって何かを形にすると言う作業自体が、自分の鍛錬になって、自分の知的な成長につながるとしたら、それもまた社会にとってはプラスだし...という風に自分を説得してみる。
 とはいえ、共同研究とか、プロジェクトのようなものに憧れがある事は否定出来ない。年を取るにつれ、自分は理系寄りの人間だったのだと気づかされるのだけど、まあ今更。再入学するとしたら建築学か生物学をやりたいかな。でも学問自体から離れたいような気もしていて、だから生まれ変わったら音楽家になりたいとか思ったりもする。
 ちなみに、僕は転生は信じていない。割と仏教的な死生観に近い。
 もうひとつちなみに言っておくと、僕は自分というものが何なのかたまによくわからなくなる。観察してみたら他人の考えばかりのような気がする時があるのだ。頭を空っぽにしている時の方が、よっぽど自分らしいと感じる時がある。これは、書き出すと止まらないので、ここで止める。いずれまた、ということで。
 次回は文献について書きます。 

FX as a virtual fighter

もし皆さんの中でFXをこれから始めようとしている方がいるとしたら。そういう人に向けた記事になると思います。何か参考にでもなればな、と思って。


<きっかけ>
FXを始めようと思ったきっかけは、正直な話、一儲けできるんではないかという甘い期待があったからです。今はそれだけではなく、他の理由でもやっています。もちろん派生した口実に過ぎない訳ですが笑

僕は為替や株などの経済変動に関してかなり無知というか、興味を持っていませんでした。それは自分にとってリアリティが感じられなかったからです。今までやってきた事はそういうものとは殆ど無縁の事です。
お金を意識したのは生活に関する事と、労働して得た対価としてのお金くらい。後将来の給料とか。狭窄なリテラシーだったなと、今は思います...

リアリティが無いと、ニュースを読んでもさっぱり分からないし、分かろうとする気力自体が生まれてこないのです...。
ところが。
FXやってみると分かるのですが、外国為替相場市場は世界の動きと密接に関わっています。
これは、やっていて少し感動したくらいです。
時事問題を中々研究の対象にしない自分にとっては、キャッチアップする為の良い機会になるかもしれない。そうすることで、近い将来=就職後、役に立つかもしれない。と、こういう動機が副次品として得られたのでした。


<相場から見える世界>
最近なら代表選(14日)とその翌日の日銀介入がわかりやすいですね。
ドル—円の相場は、何も無ければそこまで極端に動く事はありません。
ですが、その日は候補演説が始まった途端、値動きがとても激しかった。
まず円安に急反発して、管首相続投が正式に決まった後は、急激な円高
その翌日、日銀が市場介入し、再び大きく円安に振れました。
チャートを見れば一目瞭然です。
http://smartchart.nikkei.co.jp/smartchart.aspx?mcode=NE11

東洋経済に分析記事が載っていたのですが、もっと知りたい方はどうぞ。
http://www.toyokeizai.net/money/markett2/detail/AC/71a56b670d40f4e333db4869f59688d1/


世界の動きが、相場にダイレクトに反映されます。
例を挙げるのはとても簡単なくらい露骨です。


FXというのは、基本的に通貨を売買し、変動の差額で儲けを狙うもの。
だから、値動きが激しければ、それだけ利益も損失も大きくなります。
現実にそれだけ得をする人がいれば、損をする人もいる訳ですね。
例えば、82円から85円に移行したとき。
82円の相場の時に、ドルを10万通貨持っていたとします。
この時に円に換算すると、820万円。
ドルが3円値上がりすれば、850万円。
30万円のもうけになりますね。
元の金額が大きければ大きいほど、損益も増えます。
レバレッジ(元のお金の何倍もの額で取引を可能な仕組み)をかければ、もっと増えます。

普段はこんな何円も上げ下げする事は無いんですけどね。

「ふーん、円高か、円安か、日銀が介入したの、へー」くらいの典型的な駄目文系大学生の感想だったものが、一転してしまいました。リアリティが全然違う。現金な奴ですね、自分って。

先の事は分からないから、市場を完全に予測するなんて事は不可能です。プロのトレーダーでも予測が外れるんですから、我々が出来る事なんてまず無いと思っていて良いです。じゃあ知っても無駄かと言えば、そうではない。こういう時事を抑えていないと大変です。知っていれば対処出来る事は沢山あるからです。
だから嫌でも勉強します。すると知らない事が沢山ある事が分かってきます。無知は恐ろしいです。最大のリスクだと言っても過言ではありません...。


デモトレードとはいえ、「もしこれがリアルだったら」という想定の基でやっているから、損をすれば凄く悔しいし、勝てば本当に嬉しい。

少しでも興味を持った方で、時間に少しでも余裕がある方、特に僕と同じように時事に疎い方。
是非FXを。
世界に対する実感が変わりますよ。


<ここまでのプロセス>
最初に本を買う→読む→デモトレードで実感掴む→ネットで知識補完→再び実践&勉強
という感じです。


最初に買った本はこれです。

はじめての人のFX基礎知識&儲けのルール

はじめての人のFX基礎知識&儲けのルール

正直疑問が深まる本でした。
基本的な事は本当にざっくりしか教えてくれない。
もっと基本的な仕組みを教えて欲しかった。
ただ、まあ自分としては外観が掴めたので一応良しとしています。
紙数も限られているし、その辺は納得した上で買えよって話ですよね。
読みたい方は貸し手あげます。
でもぶっちゃけ読む価値は...あ、でもリンク貼ってこんな事言ったら...規約違反


もっと知りたいという方は以下のサイトがオススメです。

http://www.foreland.co.jp/lecture/index.html
これはforeland FXという会社のHPなのですが、非常に説明が分かりやすいです。
基本的な仕組みはここで十分理解出来ます。


http://hikaku.fxtec.info/wiki/
これはFXまとめサイトで、文献の紹介やリンク集も豊富です。
各社の比較一覧も出来る為、非常に有益なサイトです。
読んだ後、上記の本を買った事をちょっとだけ後悔しました。


デモトレード自体は外為ドットコムを使用しています。
http://www.virtualfx.jp/
今入賞すると、プリウスや大型テレビがもらえたりします。
興味のある方は是非。


今回はこの辺で。

はじめに

ブログを書きます。
ミクシイは私的な事を書き散らす場、
ツイッターフェイスブックは思った事をほぼ条件反射的に書き散らす場。

ブログはそういうところとは違った場として使いたい。
なるだけ読み手を意識した、まとまった文章というものを書く場として利用する。
哲学とFX、それに関連した分野の勉強のアウトプットがメイン。

とか言いつつ、つれづれな事もたまには書くかもしれないけど、位置づけとしては上記の通りで。